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浄土真宗本願寺派 南宗寺

仏事のQ&A

このページでは、御門徒の皆様から普段よくいただくご質問に答えさせていただきます。
浄土真宗の教えから、仏事の何気ない疑問まで幅広い疑問について書いておりますので、皆様のお役立てになれると存じます。

葬儀に関するご質問はこちら
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年回法要・月忌法要に関するご質問はこちら
日常の疑問に関するご質問はこちら


葬儀

Q.葬儀は友引の日を避けなければいけないのか

A.そんなことはありません。

ありていにいいますと、こんにち一般化している「友引」とは、何の現実的な具体性も、宗教的な根拠もないものです。
もともと友引とは「六曜」という古い中国伝来の(すなわち近代生活にはなんの実際的な役割も果たさない)暦の中の一日です。
そしてその日は文字どおり、共に引きあう、つまり「勝負なし」を意味する日をあらわしてきました。
それが、日本に行き渡るにつれて、友引く――、一人寂しく息を引きとっていった人が、この日に葬儀を営むと、参列した友人をあの世へ引っぱるという、迷信に転化しました。

ですから、私たち浄土真宗の門信徒は、この種の迷信に少しもこだわる必要はありません。
とはいっても、これは私たち浄土真宗の門信徒としての決意であって、私たちが社会生活を営んでいく上には、いろんな人と関わり合っていかねばなりません。
なかには迷信だとわかっていながら、ものすごく気にする人もいらっしゃいます。
そうした人に対して、一人ひとり少しもおそれることはない、と伝えてあげるのが本当の親切というものではありますが、なにぶん葬儀というのは突然の出来事であり、日を決めるにしても、喪主や遺族、またお世話くださる周囲の人々、実際面を受け持つ葬儀社の方などとの相談のうえで行われることが多いです。
その話し合いの結果によって、たまたまあたっていた友引をさけるという結論が出てもまた、仕方がないことでしょう。
要は、この種の迷信に対するあなた自身の姿勢が大切なのです。
こうした無意味な迷信に、いやおうなく振り回されるなさけない現実にきづいたとき、いよいよ正しい信心に自己を向かわしめるよう襟を正す思いを確かめねばなりません。

Q.死者に旅装束をさせる必要はあるのか

A.浄土真宗では旅装束はいたしません。

死者に旅装束をさせるとは、遺体に「経カタビラ」を着せ、頭にはおなじみの三角巾(頭巾)をつけ、さらに六文銭のはいった頭陀袋を首にかけ、鉄鋼脚絆に草鞋、それに杖まで添えるのです。まったく昔の旅支度です。
旅とは、いわゆる「死出の旅」であり、「冥土への旅」」をいうのでしょう。
それは中陰(中有)という思想と、十王または十三仏思想を背景としたもので、四十九日(中陰)間、この冥土の旅をつづけている間に、七日ごとに裁判がひらかれていき先が決められると言われています。それでも未決のものは百ヵ日、一周忌、三回忌とえんえんと持ち越されるというのです。頭陀袋の中の六文銭は、この間の路銀(旅費)なのでした。

ところで、わが浄土真宗では、み仏の誓いを信じて念仏申す者はこの世においてみ仏となる身に約束されるのであり、命終とともに浄土に往生させていただくのです。
ですから、死者はこのような旅に出る必要もなければ、入れかわり立ちかわりの裁判を受けることもありません。
あくまでも浄土真宗の中陰は、現世にのこされた私たちに向けてのお勤めで、死者への追善供養ではないのです。
したがって、浄土真宗における死者の旅装束は、まったく無意味なものになり、その支度をすることは、浄土真宗の教えではかえって死者の冒涜ともなりかねません。

Q.浄土真宗の門信徒にふさわしい弔電、お悔やみの言葉、弔辞の例が知りたい

A.不適切な言葉に気を付けて、「亡き人への思い」と「遺族の心情」を気にかけた言葉で構成しましょう。

日頃、親しくしていた人の訃報に接すると、たとえ血はつながっていなくとも、深い悲しみにおちいるものです。

お悔みの言葉は本来、その心のままを表現すればいいのです。
しかしなにぶん場合が場合です。相手はいわゆるとり込んでいる状態にあります。そんなとき、一人でながながと遺族の方を独占するわけにはまいりません。
そこで、お悔やみの言葉の構成は「1.亡き人への思いを手短に述べる」「2.遺族の心情をなぐさめる」「3.浄土真宗の味わいで締めくくる」という組み立てが良いかと思われます。たとえば
「優しいおばあちゃんでしたのに……私どもでさえ、もっともっと長く、いろいろ教えていただきたかったのに……お心落としでしょう。せめて念仏を通して、おばあちゃんの後をしたわせていただきます」

弔電も同様です。特に弔電の場合、本来ならば、なにはおいても弔問に駆けつけねばならないところを、電報一本ですませてしまうという点を忘れてはなりません。
〝申し訳ありません〟という気持ちを電文にこめていただきたいものです。
さらに、もっとも一般的な「××さまのご逝去をいたみ……」式の電文では事務的すぎますし、しかもこういう電文はつい「こころよりご冥福をいのります」という、浄土真宗の門信徒として不都合な言葉になりかねません。
以上をふまえ、たとえば
「おばあさまのお優しさを思い胸いっぱいです。いまはただ心静かにお念仏させていただくばかりです」××××

弔辞はお悔みの言葉や弔電が、遺族に対する私的なメッセージであるのに対して、葬儀という儀式におけるおおやけの行為である点で、少し色合いが違っています。
それは、亡き人との告別の指揮にあたり、亡き人の過去における業績をしのび、亡き人との共通の思い出をたしかめあって、みんなともに、今は亡き人とただ一つつながっているお念仏のお徳を胸にきざみ込むところに意味があります。
けれども、私的な感情が一切駄目かというと、かならずしもそうではありません。むしろ誰でも知っている公的な立場の中に、弔辞をささげる本人だけにしかない私的なつながりや感情を吐露することによって、かえって参列者の胸をうつといえましょう

弔辞の構成は「1.お別れの言葉」「2.業績をたたえる」「3.浄土真宗の門信徒としての誓いの言葉」という組み立てが良いかと思われます。
1.お別れの言葉――たとえば
「すでにお浄土に帰っていかれた××様に、今生のお別れの言葉を告げさせていただきます。あなたは今、安養のお浄土で、微笑みをもって私どもをお見守りのこととはいえ、こうしてお別れの言葉を申し上げるのは、悲しいことでございます……」
2.業績――
問題点だけを記します。
社会的評価にかたよらぬこと。たとえば、社会的な肩書きや履歴ばかりを羅列せず、あなた自身の価値観で、人柄をたたえることをお忘れなく。
ご自分とのつながり、とくに思い出深い感動的な出来事などでしめくくりたいものです。
3.念仏者としての誓い――たとえば
「××様。これでひとまず、今生でのお別れでございます。けれども、これが永遠の別れではなく、あなたが日頃、よろこんでおられたお念仏のあじわいを今こそたしかなものとして、私どもは受けとめさせていただくばかりでございます。お念仏をとなえれば、その中にあなたがあり、そして私どもと再びあいまみえる世界が約束されているみ仏の誓いのたのもしさを、そのまま頂戴させていただきます。南無阿弥陀仏……」

※お悔やみの言葉・弔電・弔辞で使ってはならない言葉
「冥福を祈る」   「草葉の陰の君」   「昇天されて」   「幽明境を異にする」   「泉下の人」   「地下の故人」……など

Q.浄土真宗以外の葬儀に参列した時の心得は?

A.社会人としての立場と浄土真宗の門信徒であるという自覚の両方を意識することが大切です。

私たちはいろんな人とのつながりの中で、社会生活を営んでいます。社会は多様であり、その信じる、あるいは家につたわってきた宗教もまた多様です。仏教のほかにキリスト教、神道、教派神道など、じつにいろいろあり、仏教でも各宗派に分かれています。
ですから、宗旨が違う家の葬儀に参列することも、少しも珍しくないでしょう。この場合、社会人としての立場と浄土真宗の門信徒であるという自覚の両方が大切です。

社会人としてはあくまでも相手の信奉する宗旨の儀式を尊重しなければならないでしょう。自分の宗旨と違うからといって、儀式への参加を拒否しては社会生活がなりたちません。仏教の焼香のような場面でなら、儀式にしたがってそれ相応のことをしてください。
といっても、べつにむつかしいことではありません。仏教なら焼香して合掌礼拝し、キリスト教や神道なら、花や榊を供えて、頭を下げればいいのです(花や榊は遠慮してもいい)。

浄土真宗の門信徒の自覚としては、相手の宗旨を尊重するからといって、異なった称名――たとえば題目や真言などをすすんでとなえる必要はありません。この場合では、あなたは亡き人の宗旨に帰依するために来たのではなく、あくまでも亡き人の追悼のために来たのです。そのことは、遺族のかたがたも百も承知ですからあなたにそれを強いたりする気持ちは決してないはずです。
しかし、自分は浄土真宗の門信徒だからというので、故意に他宗のご本尊の前で、大きな声で「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えるのもつつしんでください。心の中でお念仏を称えながら合掌してください。

お仏壇

Q.宗派によって仏壇に違いがあるのか

⇒A.違いはあります。

仏壇屋さんの店内を、一度覗いてみるとよくわかるのですが、仏壇の価格の表示のところに「○×宗派用」とか「△宗派」などと書かれています。つまり、違いがあるということです。
その理由は仏壇とはご本尊をお迎えして安置するものだからです。したがって、仏壇はたいせつなご本尊を安置するのにふさわしいものでなければなりません。
たとえば、お釈迦様の座像(木製や金属製)をご本尊として安置する宗派では、その大きさに合わせて仏壇の設計がなされています。この場合、座像ということから多少、横幅が必要となってきます。
浄土真宗ではご本尊は主にたて長の絵像の掛け軸ですから、仏壇全体もそれにあうように、比較的縦長なものになっています。
そうして、さらに細かく見ると、同じ浄土真宗でも、真宗大谷派(本山・東本願寺)では、宮殿に「もこし」がついていて二重屋根のように見えるのに対し、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)では、宮殿に「もこし」はつけないとか、同じように仏具についても輪灯や具足、卓など宗派によってはっきり区別されています。
いずれにしても、仏壇を求めるときは、「私の宗旨は浄土真宗本願寺派です」など、必ず明らかにしておくと同時に、事前にお手次のご住職に相談して指導を受けるようにしてください。


Q.仏壇がない場合、床の間に壇を作って仏壇としていいのか

A.何ら差しつかえありません。結構です。

床の間はもともと仏画などを掛けて仏様を中央に、その前に香炉や花を秘するために作られた場所だからです。だからこそ、私たちの座る位置より一段高くし、「壇」が設けられているのです。
ほかに適当な場所がない場合、床の間に二、三段の「壇」を作って、最上段中央にご本尊を安置して、必要な仏具を配するといいでしょう。
また、仏壇そのものを、床の間に納めるということになっても結構です。

Q.仏壇内の仏具の配置とお飾りの方法がしりたい

A.浄土真宗の普段のお飾りの例を明記します。

浄土真宗の仏具の配置やお飾りの仕方は、本山(西本願寺)の形を基本として行っております。つまり本山の形を手本として、家庭の仏壇はそれらをミニチュア化しているのです。
ですので、本来でしたら、華蔓や瓔珞といったお飾り、また前卓や上卓といった卓に三具足・五具足などの本山でのお供え方法を真似するのが理想ではありますが、なかなか一般家庭では難しいこともあるかと思います。
ですので、ぜひこれだけは揃えていただきたいという図を下のPDFファイルで紹介しておきますので、ご参照ください。
obutsudan.pdf へのリンク

年回法要・月忌法要

Q.年回法要は何回忌までと決まっているのか

A.年数に決まりはありません。

年回法要は、亡くなられてまるまる一年目の命日に一周忌、そして次の二年目に三回忌、以後、同じように実質経過年数プラス1の計算で七回忌、十三回忌、十七回忌、二十五回忌(地方によっては、二十三、二十七回忌をつとめる)、そうして三十三回忌、五十回忌となり、それ以後は五十年ごとにつとめられ、百回忌、百五十回忌……と、いわば永久に続いていくものなのです。

ところが実際はどうでしょうか。五十回忌ならまだしも、百、百五十回忌ともなると、生前に著名な人であり、歴史に残るというようなよほどの人でないかぎり、つとめられることはまずないでしょう。百年もたつと、亡き人のことを知る人が、この世にほとんどいなくなるからです。
現実には五十回忌が一応の年回法要の区切りとされるのが、もっとも一般的でしょう。

ただ、ひとことつけ加えておきますと、常識的に考えて、およそ七回忌から十三回忌あたりを境にして、故人の生前の思い出が、人々の心の中から徐々にうすれていくのも、やむをえないでしょう。だからつい、年回法要はもうこのあたりでいいのではないだろうか、という心が起こってくることも予想されます。
しかし、年回法要はただ故人を偲ぶだけの集いではありません。故人の法事を機縁として、参詣者一人ひとりが仏法のみ教えに触れ、仏恩に報謝する場なのですから、事情が許すかぎり、いつまでも続けていってほしいものです。

Q.お布施の金額はどれくらいが良いのか

A.決まりはありませんが、気になるのであれば参考までにその土地の人や、門信徒のかたに尋ねてみるのといいでしょう。

仏典の中にこんな話があります。
お釈迦様が、あるとき祇園精舎という僧坊へお説法のためにおもむかれるにあたり、夜道を無事にたどり着いていただくよう、王様やお金持ちがあり余るお金で大量に油を買い求め、沿道に灯篭を明々と灯しました。
しかし、夜半すぎ、突如強い風が吹き抜け、灯篭の灯が消えてしまったのです。
ところが不思議なことに、ある貧しい老女の、日々の暮らしをきりつめて求めた、ささやかな油でともされた灯篭だけは消えず、それどころか、あたりを真昼のように照らし出し、おかげで無事にお釈迦様は、祇園精舎に行きつかれたというのです。

今、一般に私たちが「お布施」と呼んでいるのは、お坊さんに形にあらわすことのできない尊い仏法を施していただいた(法施)ことに感謝して、在家の人々が形のあるものを施す(財施)という、この財施を指しています。
この、法施に対して財施(お布施)が行われているというのがお布施のあり方で、今の仏典のエピソードでもお分かりのように、お布施というものは額の多少が問題ではありません。
その人の、できるかぎり精いっぱいの「真心」がこもっていることが、何にもまして大切なのです。

この度は、参考までに近隣の方々、もしくは門信徒の方々に尋ねることを答えとさせていただきましたが
本来、お布施はお坊さんに対する、いわゆる労働報酬ではありませんから、必然的なきまりなどは存在しませんし、また基準など出すことも不可能なことです。
というのは、日頃から、農作物などを機会あるごとにお寺へ届けたり、積極的に仏法の道場たるお寺の護持をおこなっているところとそうでないところではお布施のニュアンスがかなり違ってきます。また各々の時のしきたりによっても異なりますから、これらをおしなべて「平均値」を出しても、何の意味もないのです。

あくまで「精いっぱいの真心」が大切であることを心にかけていただきたいと、思う次第でございます。


日常の疑問

Q.不要な念珠や切れた念珠はどうすれば良いのか

A.修理をご希望でしたら仏壇屋・念珠店、またはお手次のお寺にお持ちください。

念珠といっても、いろんな材質を用いたものがあります。高級なものをあげると、瑪瑙、珊瑚、水晶などの宝石類です。
糸が切れたからといってそのままにしておくことはなく、仏壇店や念珠店、またはお寺のご住職に修理してもらえばいいのです。
しかし、修理ができそうにない念珠などもあるはずです。
そういう念珠の取り扱いについては、お手次のご住職に相談することをお勧めいたします。

Q.日常にあげる簡単なお経がしりたい

A.「正信偈」または「十二礼」「讃仏偈」「重誓偈」などがあります。

私たち浄土真宗の門信徒が、信心の喜びを表現し、み教えの徳をたたえて、普段おつとめするのは「正信偈」です。
これは、宗祖・親鸞聖人の主著であり浄土真宗の根本聖典である「教行信証」の中におさめられた偈(漢詩)で、まず宗祖ご自身の信心の味わいを明らかにし、ついで、大無量寿経にあらわされた阿弥陀仏の真実の救いと、これをすすめられたお釈迦様の翻意を宗祖にまでつたえられた七人の高僧の解釈を讃えられたものです。
拝読するときは、これに「南無阿弥陀仏」のお念仏と、宗祖の和讃(日本語でつづられた詩)六種をつけます。
ところが、時間的に余裕がない場合は、それにかわるものとして、短い「十二礼」「讃仏偈」「重誓偈」などがあります。いずれも、仏の誓いのたしかさを味わい、その徳をたたえる「ご文」です。そして、正信偈を含めて、これらは戦後、すべて和訳(現代語訳)されています。
この普段のおつとめは、「日常勤行聖典」として発行されており、お求めの方はお手次のお寺に相談されるか、もしくは西本願寺や各地の別院にて販売いたしておりますのでお気軽に申し付けください。


その他、気になる仏事の疑問がありましたら、お気軽に南宗寺までお問い合わせください。



≪参考文献≫
続・法事を営む70章 (大阪教区教務所より出版)